飛び道具で敵を翻弄
攻守分業の戦法
項充は、入山前は河南省の芒碭山に巣食う山賊の幹部であった。背に飛び道具の24本の「飛刀(ひとう)」を背負い、槍と円形の盾「団牌(だんぱい)」を手にしていた。彼が四方八方に槍や刀を投げる姿が、毘沙門天の子で3つの顔と6本の腕を持つ神・那咤(なた)を彷彿とさせることから「八臂那咤(はっぴなた)」と呼ばれた。
ある時、芒碭山に梁山泊の史進(ししん)が攻め寄せてくる。前々から、梁山泊を倒して配下にしようと目論んでいた項充たちは、彼らを迎え撃った。史進率いる軍勢相手に、項充は飛刀を投げ、団牌を振り回して一気に斬り込むと、相棒の李袞とともに彼らを撃退。しかし、その後間もなく史進の第2陣が攻め入り、項充もこれに応戦したものの、軍師・呉用の布陣の前に敗れ、捕虜となってしまう。
死を覚悟した項充だったが、宋江は、武芸に秀でた3人を梁山泊に加え、大義のためにともに戦うことを望み、彼らの縄を解いた。項充は宋江の義心に感動し、投降を決意。そして樊瑞と李袞を説得し、そろって入山した。
その後は歩兵軍で、李逵らと組んで活躍。猪突猛進の李逵らを李袞と一緒に2つの盾で守るという攻守分業で、李逵が危機に陥る度に飛刀が飛び、彼らを救った。方臘の戦いではこの戦法で200人以上の敵兵を討ち取り、梁山泊に欠かせない歩兵軍の一員として活躍した。
項充が生まれた江蘇省徐州市沛県。前漢初代皇帝・劉邦(りゅうほう)の故郷として知られ、「千古龍飛地、帝王将相郷(1000匹の龍が飛び交う、皇帝の地)」と称される。そして項充もまた、1000匹の龍の如く、この地から飛び立った。
~北京ジャピオン2014年01月27日号