賊徒出身の戦う軍師
勝利に導いた陣形
朱武は陝西省の少華山に籠もっていた山賊の第1頭領。
第2頭領の陳達、第3頭領の楊春とともに、近隣を荒らしていた。
「双刀(そうとう)」という二振りの刀の扱いに長けるだけでなく、
兵法や陣形、用兵術についての知識をもつ。
実戦では部下を束ね、巧みな戦略を練ったことから、
「神機軍師(しんきぐんし)」と称された。
ある日、部下の陳達が、棒術の名手である史進に
勝負を挑むも敗れ、捕らえられてしまう。
朱武は史進とまともに戦っても勝てないと判断し、
泣き落としの策を取った。
「我らは生まれた日は違えども死す日は同じと誓った義兄弟だ」
と涙ながらに訴える朱武に心打たれ、
史進は、陳達を解放するのだった。
朱武はその後、史進を少華山の新頭領として迎えたが、
史進の兄貴分である魯智深の説得を受け、
朱武らはそろって梁山泊入りする。
入山後は、軍師の呉用(ごよう)の補佐役を務めた。
王慶の戦いでは、梁山泊第2頭領の盧俊義(ろしゅんぎ)を補佐し、
「循環八卦(じゅんかんはっけ)の陣」という陣形を使って、
敵軍を翻弄する活躍を見せた。
方臘の戦い後も生き残り、
最後まで智勇を以って山塞を支えた。
朱武と深い関わりのある安徽省滁州市定遠県。
古代は曲陽と呼ばれ、『三国志』の呉の戦略家である魯粛(ろしゅく)、
明の創始者、朱元璋(しゅげんしょう)に仕えた軍師、李善長(りぜんちょう)など、戦略・戦術の才に秀で、智謀に長けた人物を多数輩出している。
そして、神機軍師・朱武もその1人だ。
この地に眠る、才智の神に出会いたいものだ。
~北京ジャピオン2013年9月9日号